オタクの独り言

若手俳優・ハロプロ・2次元(うたプリ)が好きな成人済のオタクが最近はプロレスのことを殴り書きするブログ

日本史を好きになってもらえるなら入りが男色でも構わない

っていう題名にしたけど、それは私の一個人の考えです。


ちなみに、私が日本史を好きになったきっかけは、大河ドラマ利家とまつ』でした。



5年前の大河ドラマをみなさんは覚えているでしょうか?
画面が汚いなど、酷評と低視聴率で話題になりました、『平清盛』です。

私は、そんな酷評は気にならなかったです。
それは、一番勉強するのが大好きな時代である、平安時代を題材にしてくれたからです。

そして気になる偉人である『藤原頼長』が登場するからです。



ここでピーンと来た方は、歴史好き、または歴史の雑学好きだと思います。

まぁ、藤原頼長は有名な偉人ですよね。
保元の乱での直接的な怪我で死亡した唯一の貴族は伊達じゃない。

そして、『こんなふうに落としたぜ!』とか、『こいつを抱いたぜ!』とか、『抱かれたんだけど気持ちよかった…』なんて内容の日記を書いてしまうなんて、なんて筆まめなんでしょう。
現代なら、ブログを毎日更新しているようなものですよ。


頼長の生きた時代、男色は当たり前の時代です。
この時代の男色は頼長を扱った様々な本を読んでいても、純粋な恋愛を目的にせず政治的に利用することが多いように感じます。
(※ 純粋な恋愛を期待してこの記事を読み進めようと思った腐ったお友達、メンゴ!!)

もちろん役職が下位の者が上位の者に身体を捧げれば、出世する可能性があるでしょうし、上位の者は下位の者と関係を持つことによって自身への裏切りの可能性を摘み取っていたでしょう。
つまり、身体の関係またはそれに準ずる関係を持つことで、互いの利害が一致して男色が当たり前になっていたのかもしれません。
(※ ちなみにこの時代の攻め受けは位の高さで決まるよ。身分が低い方が受け、高いと攻め。後日詳細を書きます。)


ま、でも、難しい事書くより、純粋な恋愛の側面で見た方が楽しいに決まってると思います。
なので、純粋な恋愛の側面で頼長さんの日記を見ていきます。

というわけで、自分が学生時代に作成したレポートを元に、藤原頼長のめくるめく男色の世界をご案内できたらいいなぁ…と思います。

間違いなどあるかもしれませんが、その際はそっと教えていただきたいです。
そして、鵜呑みにせず自分で深く調べてみるのもまた楽しいと思いますので、自分で調べてみて下さい。


以下の文章は参考文献と私の妄想と主観で成り立つ文章です。
そしてちょっとどころか長いです。


☆赤裸々男色日記その1~藤原隆季編~


頼長さん、隆季と関係を結ぶために、相当な努力をしています。
そんなことが分かる日記を紹介したいと思います。


台記、康治3年 (天養元年)4月3日のにこのような記述をしています。

戌終、興或卿三同車、余水干、泊或受領讃宅、天明皈、自去年雖通書、
全不返報、今夕始会合、如意輪供、已以成就

〈書き下し〉
戌の終り、或る卿三と同車し余は水干、或る受領讃宅に泊す。天明に及びて皈る。
去年より書を通ずと雖も、全く返報せず。今夕始めて会合す。
如意輪供已に以て成就するなり。

現代のブログ風に意訳すると、

戌の刻の終わり頃(午後9時近く)、水干を着てとある卿三と受領讃の家にお泊り♡
ちなみに、明け方頃までいたよ!
去年から(受領讃に)お手紙出してたけど全然返事が無かった…。
だけど、今夜手紙出し始めてから初めて会う!
如意輪観音に祈祷してよかった!成就した!!♡

こんな感じ。

『卿三』、『受領讃』は共に、役職だあり、台記の中では人物を指す隠語となってます。
卿三→藤原忠雅
受領讃→藤原隆季
となります。
(※ 花山院忠雅のことは、後日書かせていただきます)

わざわざ水干に着替えたのは変装ですね。きっとお忍びのお泊りだったのでしょう。
なにより、すごく頼長さんは乙女じゃないですか!?
『お返事きて~!会いたいよぉ~!』なんてきっと思いながら神頼みしていたんだろうなと考えられますね。
ま、今回の記事で出てきた忠雅とは、男色関係を結んでいます。
このつてを使って、隆季と出会うのです。
なんともしたたかな頼長さん…。

この会合ではただ会っただけの可能性が高いです。ただし、これみよがしに忠雅といちゃいちゃを隆季の前でした可能性も無きにしろあらず。あくまで妄想
ですけど。(笑)
隆季とは男色の関係を結ぶのは、約2年後の久安2年5月3日のことになります。

子刻会合或人讃、於華山有此事、遂本意了、依泰親符術也、彼人年来固辞、
而三月泰親進符、其後未通言、今日一日、彼人送示可逢由、
因之宝剣一腰賜泰親、加褒美泰親書

〈書き下し〉
子の刻、或る人讃と会合す、花山においてこの事有り、本意を遂げ了んぬ、
泰親の符術に依る也、彼人年来固辞す、而して三月泰親符を進む、
其の後未だに言を通ぜず、今日一日、彼人逢うべき由を送り示す、
これに因りて宝剣一腰を泰親に賜い、泰親に褒美するの書を加える

誰も期待してない現代のブログ風に意訳すると…


子の刻(午前0時頃)にあの人(讃)と忠雅の家で会ったよ!
ついにっ!ついにっ!!
隆季と身体の関係を持っちゃたぁぁ!!♡♡♡
実は3月に陰陽師の泰親に符術を頼んだ結果なんだよねぇ
泰親には褒美として宝剣一腰あげちゃおう!あ、これが褒美だって手紙も書かなきゃ!

2年とはだいぶかかりましたね。
多分、隆季もこんな気持ち悪い執念深い人を受け入れて、自分の昇進のためと腹をくくるまでに時間がかかったんですかね?

にしても日記の文面からも伝わる頼長さんの喜びようはすごいですよね。
前回の日記にない『本意』という文字。これに身体の関係をもったということが想像つくと思います。
陰陽師に符術をお願いしちゃうほど、隆季と結ばれたかったんだね…、と遠い目をしてしまいそうです。
花山というのは、卿三としてでてきた藤原忠雅です。
恋人といえ、隆季と結ばれると知りながら、場所を提供してる忠雅…。どんな胸中だったんでしょうか。
脇役愛を持ってる人間としては、ここでの胸中を想像してしまいますね。


その約1年後に、隆季から和歌と漢詩が送られてきた日記があります。
律儀に隆季の和歌と漢詩を日記に記しているんです。
今でいうスクリーンショット的な(笑)
ちなみに、その和歌と漢詩の内容は意訳すると『羽林(近衛府)の役職に就きたいなぁ』ですから、したたかですね。がっつり政治的利用してます。
でも、その返歌として頼長さんは『今冬には羽林になれるでしょ』と書いてます。
学生時代の私は、ここで満足して本当になったか調べていないんですよね。興味がでてきた方、調べてみて下さい。

頼長さん、実は和歌も漢詩も苦手です。
実の父親の忠実にも『経史に通ず』と評されるくらいの勉強家です。
この日記の注釈のような感じで『不堪により和歌はせず』と書いてます。
失礼のないように漢詩だけ返歌を作る頼長さん、すばらしい。
何日もかかっていたらとってもベリベリキュートです



☆最後に…

純粋に恋愛として楽しんでいたんじゃないか!?って思ってしまいますよね。
この時代は、結婚も許嫁がいたり、政略結婚だったり、男女の自由な恋愛はないような状態ですよね。
頼長さんは、男色を政治的に利用する以外に、自由な恋愛を求めたところもあったと思います。
この時代の恋愛に和歌は必須ですし、和歌が苦手なら基本的に必要のない男色に恋愛の要素を求めるのも無理はないかな…、とも思います。

でも、こんな頼長さん、子供は(養子にでたり若くして亡くなったりしてますが)5人いますし、頼長さんと関係を持った妻や側室は4人います。

一概に男好きだったとは言えない部分はあります。
この続きも気が向いたら書きたいと思います。


長文でしたがお付き合いありがとうございました。






参考文献
台記一・二 史料大成刊行会 臨川書店 昭和四〇年
人物叢書藤原頼長』 橋本義彦 吉川弘文館 昭和三十九年
平安朝の男と女 服藤早苗 中公新書 一九九五年
日記にみる藤原頼長の男色関係 東野治之 『ヒストリア』八四号 昭和五四年
院政期社会の研究 五味文彦 山川出版社 昭和五十九年
王朝の性と身体 逸脱する物語 小島菜温子 森話社 二〇〇二年
男色家・藤原頼長の自己破綻 神田龍身